はるをみはる-9

 現にいま、あたしはどこへも行けない。上にいるだれかはどうしても見えないし、家にも帰りたくない。ここはもともとあたしの部屋じゃなくて、それでなくてもお邪魔虫なんだからいつまでもいられるわけがない。ここに居ればいるほど、あの、人を疑うことを知らないエリナちゃんを傷つけているような気がして仕方なかった。もちろん広基のところへは戻れない。
 どうしよう。
 ぺらっ、ぺらっと消費されていくあたしの人生。あたしを読んでる人は、読み終わったら捨てちゃってもう思い出しもしないんだろうな。ちくしょう。むかつく。
 やっぱり望くんを押し倒そうかな。それがいちばんイージーだ。味気ない人生にちょっとしたスパイスをまぶすだけじゃない。彼は腕力なさそうだから力ずくでいいところまでいけるかも。
 ページを捲る音に、違う音が重なる。
 耳を澄ました。電話のベルだ。
 かすかに、遠くから響いてくる。携帯電話の呼び出し音とは違う感じがする。
 エリナちゃんだろうか。あたしは台所の方を振り返った。
 望くんが居ない。あれっ、いつの間に……コンビニでも行ったのかな。だけど声ぐらいかけてけばいいのに。
 電話の音はこの部屋から響いてるんじゃなかった。ここには据え置きの電話がない。望くんは、たしか携帯しか持ってない。
 てことは、上だ。「読者の部屋」だ。
 本のなかの人間が、本の外の世界から聞こえてくる電話の音を意識するわけがない。だからあたしは現実の人間だ、と思った。でも……おかしな頼りなさがさっきからあたしを包んでる。そういえば、ゆうべどうやってこの部屋まで来たか憶えてない。だからここを出ても、あたしは知らない町の知らない景色に囲まれるだけ。どっちへ行けば帰れるかわからない。ぜんぜん別の場所へ連れてこられちゃったのかも。ぜんぜん別の場所って、どことは言えないけれど、なんだかよそよそしくて、不確かな世界。あたしの知らないあたしに関係のない世界。
 まもなく上の人は読み終わる。で、本は閉じられる。それでおしまい。あたしは本に閉じ込められて本棚にしまい込まれる。もうだれにも読み返されることはない。
 イヤな汗が脇の下から流れる。あたしは動けない。怖いのに、じっと我慢するだけ。動けない? ほんとに? もう時間がない。読み終わったら終わりなのに。あたしは弾かれたようにベランダの柵をよじ登った。向こう側へ行くんだ。このまま閉じられたくない、本の外へ!

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